日本マイクロソフト(日本法人)の歴代社長の一覧です。AI Referee(エーアイ・レフェリー)による評価・評判・経歴・実績など。初代から現在。正式な会社名は「日本マイクロソフト株式会社」。1986年2月設立。
就任期間 | 名前 |
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2023年2月 ~ |
津坂美樹 (つさか・みき) |
2022年 ~2023年 |
アーメッド・ジャミール・マザーリ |
2019年10月 ~2022年7月 |
吉田仁志 (よしだ・ひとし) |
2015年7月 ~2019年8月 |
平野拓也 (ひらの・たくや) |
2008年4月 ~2015年6月 |
樋口泰行 (ひぐち・やすゆき) |
2005年 ~2008年 |
ダレン・ヒューストン |
2003年 ~2005年 |
マイケル・ローディング |
2000年5月 ~2003年 |
阿多親市 (あた・しんいち) ※1958年9月、神戸市出身。1982年(昭和57年)島根大学(法文学部法学科)卒、同年アイワ(現ソニー)入社。販売企画部に所属。世界で初めて商品化した、デジタル録音可能なオーディオデッキ「DAT」のマーケティングを担当。晴れの舞台である製品発表会の説明役を務めた。28歳の時だった。 1987年マイクロソフト(現日本マイクロソフト)入社。当時60人ほどの会社だった。 1990年 広報宣伝課長 1991年 アプリケーションマーケティング部製品計画一課課長 1992年 マーケティング部部長 1992年 第一営業部部長 1994年 リテール営業統括部部長 1996年 パーソナルシステム事業部長 1997年 取締役 1998年 常務兼ビジネスソリューション事業部長 1999年 常務マーケティング部門担当 オフィスに1台しかコンピューターがない時代に、MSは消費者宅にも1部屋に1台入るようになると考えていた。それをソフトウエアの力で実現しようとしている点に感動して入社した。 2000年5月から社長。数十人の所帯だったマイクロソフト(MS、現日本マイクロソフト)を育てた立役者。営業や販売企画で活躍し、トップに上り詰めた。市場・技術動向に関する嗅覚の鋭さには定評がある。 営業の経験が長く、特に個人ユーザーなどを対象としたマーケティングで華々しい戦果を上げてきた。 「営業は科学だ」が持論。データ分析に裏打ちされた科学的な営業手法を、マイクロソフトのセールス部隊に刷り込んだ。 執行役員制を導入した。パッケージ製品の拡販が事業の主軸だったかつては米国の戦略、組織体制に従った経営スタイルで事業成果を上げることができた。しかし、企業向けのシステム構築やネットに軸を移したため、市場環境を見ながら日本に合ったオペレーションが必要になった。 執行役員制は、米本社と一緒に展開するグローバルな視点の一方で、国内で自分で答えを出しながらビジネスを拡大するカルチャーを植え付けることを狙った。 2003年ソフトバンクBB常務。2012年ソフトバンク・テクノロジー最高経営責任者(CEO)。 主要な歴史小説は読み尽くし、繰り返し楽しんでいる作品もある。春から秋にかけてはゴルフも楽しむ。 父親は阿多親男(あた・ちかお)氏。2001年6月10日死去。享年67歳。 |
1991年 ~2000年4月 |
成毛眞 (なるけ・まこと) ※1955年、札幌市生まれ。 ■ 読書好き小学校のころは、母親が小遣いをくれず、テレビもマンガ本も禁じられていた。その代わり本だけは無制限に買ってくれたという。小学5年生のときにはすでに、筒井康隆のデビュー作『東海道戦争』を初版で買ったのを自慢していた。■ 生徒会長札幌西高時代は生徒会長。制服自由化実現のため強硬手段に訴えたこともある。■ 部品メーカーに3年勤務1979年、中央大学(商学部)を卒業。自動車部品メーカー(クラッチ板製造)の「ダイナックス」(本社:北海道千歳市、当時:大金・アールエム)に3年勤めた。■ アスキーに転職1982年アスキー入社。アスキーに入社して一週間後、シアトルにあるマイクロソフト本社を訪れ、そこで初めて同い年のビル・ゲイツと会った。Tシャツに短パン姿でハンバーガーをかじりながら廊下を歩き回っており、「ただの若い男」という印象だった。■ 「BASIC」を売るアスキーではソフトウエア開発本部次長を務めた。翌年にアスキー・マイクロソフトへ出向。コンピューターメーカーに、「BASIC」というソフトを売るのが最初の仕事だった。■ 日本法人設立と同時に移籍1986年マイクロソフト日本法人設立と同時に移籍。OEM営業部長。1990年取締役マーケティング部長。1991年から社長。■ 「エクセル」日本語版の開発米国で発売されたワープロソフト「ワード」と、表計算ソフト「エクセル」の日本語版の開発を急いだ。1991年から相次いで投入。これで応用ソフトの販売が急増し、パソコンが一般向けに普及していく流れに、日本法人が貢献するようになった。■ 米国本社を真似る日本法人では、ビル・ゲイツのやり方を徹底的に真似した。親会社になぞらえて、組織を改編し、開発を担当者に任せるなど権限を移譲した。給与体系も合わせた。ソフトのパッケージのデザインも、米国と同じに。それだけでなく、オフィスに置くティッシュの銘柄まで一緒にしたという。■ 「超現実主義者」社長時代、「僕は世界各地にいるCOO(最高業務責任者)の一人。COOに必要なのは経営を科学的、論理的に進める能力だ。営業、開発、企業計算ができる技術者であるべきだと思う。CEOのビルは10年先を見渡してるけど、僕は3年先まで。夢を持つ必要はない。“超”現実主義者だ」と語っていた。■ ウィンドウズ95ブームを演出ウィンドウズ95の売り出しで、日本にパソコンブームを仕掛けた。ウィンドウズ95が発売された1995年11月当時、日本のパソコン普及率は米国よりぐっと低かった。そこで、「いかに衝撃的に、いかに多く売るか」に専念した。「もうテレビより面白い」などのコピーで、夏場から宣伝を強化。販売店主や店員と飲みに行き、合宿も開くという純日本的な方法もとった。パソコンの広告に「ウィンドウズ95対応」と入れるキャンペーンも張った。 午前0時に販売開始にした。発売の1時間前に、営業本部長だった阿多親市氏(現マイクロソフト社長)と、東京・秋葉原に乗り込んだ。結局、初回販売に用意した50万個は短期間に完売。真夜中という意表を突く売り出し方は、その後各国で増えた。 ■ 退任し、自分の会社を設立業績は好調だったが、「いささか疲れた」と2000年4月末に社長を退任し、取締役特別顧問。2000年5月に経営コンサルタント兼投資会社「インスパイア」を設立し、社長に就任。かつての同僚4人と立ち上げた。狙いは、鉄鋼や建設、農林水産など、かつての基幹産業でいまは「オールドエコノミー産業」と呼ばれる分野の復活だった。 あおぞら銀行(旧日本債券信用銀行)の社外取締役も務めた。スルガ銀行の社外取締役も務めた。 |
1986年 ~1991年 |
古川享 (ふるかわ・すすむ) ※1954年東京都生まれ。和光大学中退。小学生のころから鉄道やカメラに興味をもち、そこにコンピューターが出てきた。大学時代はパソコン欲しさに、「ハンダごて一本さらしに巻いて」海を渡った。米国の西海岸ではパソコンビジネスが立ち上がり、自分より若い人が「社長」と名乗っていた。 そんな情報を日本企業に売ろうとしたら、西和彦さん(アスキー創業者)に出会う。アスキーの8人目の社員になった。「企業の深奥部に置かれる大型コンピューターを人間の五感を広げる道具に」という未来像を抱き、出版社アスキーの役員を退任。 マイクロソフトの日本法人を立ち上げた。日本法人を18人で設立したのは1986年、32歳の時だった。ちょうど、パソコンがマニアの玩具からビジネス道具に変わりつつあった。 年18回の渡米など、社長業は激務だった。4日徹夜してつくった予算書を手に、米国本社に説明に出向くと下血。「死ぬかもしれない。中止にして」と創業者ビル・ゲイツ氏に訴えたこともあった。 「OSが米国製でも、応用ソフトや周辺機器は、どの国のどのメーカーが作ってもいい。日米の懸け橋になれれば」という思いが、猛烈な日々を支えていた。 日本でのOS販売が軌道に乗った1991年、「0から1にするのは得意だけど、1を100にするのは苦手なので」と会長に退いた。37歳、髪は真っ白だった。 2000年4月、米国本社の副社長に就任。ゲイツ氏直属チームの中核として技術戦略を担った。 |