名前 | 評判・実績・略歴・評価など |
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樋口泰行(ひぐち・やすゆき)![]() ※短期間の日本HP社長を経て、ダイエー社長に抜擢されたが、再建途上で挫折。マイクロソフトでも「再び短命で終わるか」と注目されたが、成毛眞に次ぐ7年間の安定政権を実現した。法人分野に弱かった日本マイクロソフトの体制を刷新。 【期間】 2008年4月1日~ 2015年6月30日 【生まれ】 1957年11月28日 |
社長就任時の年齢50歳 社長就任前の役職法人向け事業担当COO 出身地兵庫県 出身校(最終学歴)大阪大学(工学部)
新卒での就職先パナソニック(当時:松下電器産業)
パナソニック入社理由大学教授の推薦 入社年次1997年 パナソニック社員時代1980年、松下電器産業(現パナソニック)入社。 赴任先は「溶接機事業部」松下電器の最初の赴任先は「溶接機事業部」。産業用の溶接機械をつくる部署。バーナーや溶接機が火花を散らし、町工場を思わせる職場でつま先に鉄板の入った安全靴を履き、作業着の上に革の防護服を重ねた重装備で来る日も来る日も、溶接をした。暑苦しい防護服を身につけ、納入先の工場をまわって機械のトラブルを解決した。一日が終わるころには、粉じんで鼻の中まで真っ黒になり、溶接の光で目が焼け一晩中眠れないこともあった。 特許を取得事業部にいた5年で6つの特許を取得したという。 コンピューター部門へ異動コンピューター部門へ異動した。パナソニックは当時、IBMが開発したワークステーションの設計・製造を請け負っており、米国向け製品の回路設計を任され、米国のIBMに出張したり、米国人社員と会議をしたりする機会に恵まれた。会議の進め方一つをとっても、終了時刻の間際になって議論を蒸し返すような日本流とは違い、論点整理を済ませたうえで、議論を交わし、定刻にピタリと終わる。そんな米国流の合理的な仕事の進め方に魅せられた。 社費でハーバード留学社費でハーバード大大学院に留学し経営学を学んだ。世界中から集まった学生と議論を交わしたことが、その後の外資系コンサルタント会社、コンピューターメーカーへの転身のベースになった。 米国で苦労した米国で学びたいと考えた樋口に、MBAの取得を薦めたのは当時の部門長だった。1989年、難関の米ハーバード大に進む。同期には三菱商事からローソンの社長になった新浪剛史や住友商事から留学したグロービス・グループ代表の堀義人がいる。口八丁手八丁の商社マンだ。「工場で半田ごてを握って走り回っていたという経歴の持ち主はまずいなかった」と樋口。語学力にハンディを負いながら猛勉強をこなさなければならない2年間の苦労は、並大抵ではなかった。1991年に修了 帰国後、米ハリウッドのユニバーサルとの連絡役に帰国後、パナソニック本社の企画部門の「AVソフト室」に配属される。パナソニックが1990年に買収した米ハリウッドの映画会社、ユニバーサル(当時:MCA)との連携や相乗効果の発揮を図る部署だった。ここでユニバーサルとのパイプ役を命じられた。両者の経営陣の相手側の言い分を伝える「連絡係」のような立場だった。主体的な判断を下す余地がなかった。日米の板挟みになるだけで、物事を主体的に進めることができなかった。ハーバード大での2年間で培ったマネジメント知識を生かす余地はなかった。与えられた権限の小ささに不満が募った。 34歳でパナソニック退社を決意AVソフト室で半年間勤めた後、パナソニックを退社することを決めた。当時34歳。 ボストン・コンサルティング時代1992年、ボストン・コンサルティンググループ入社1992年、ボストンコンサルティンググループ入社。生まれ育った大阪から東京に引っ越した。 すぐに製造業のプロジェクトに配属された。 アップル時代1994年、アップルコンピュータ入社プロダクトマーケティング本部ニュープロダクト部の部長【1年半在籍】※パソコン以外の製品の担当(PDAなど)
個人向けパソコンのマーケティング担当。初心者向け低価格帯の「パフォーマ」※販売イベントで日本中を駆け回った。 希望して営業部へ移動※自分で起業または社長を目指すようになったため、その準備として キヤノン販売の担当責任者に。 当時、キヤノン販売はアップルPC90万台の半分を扱っていた。 ディベロッパーリレーション本部の本部長※アプリ開発会社との関係構築が業務。当時ウィンドウズが急伸し、マックは凋落していた。 コンパック時代こちらをご覧下さい(日本HP 社長 歴代→) 日本HP時代こちらをご覧下さい(日本HP 社長 歴代→) ダイエー時代2005年5月26日、ダイエー社長2005年5月26日、ダイエー社長に就任。 林文子・前BMW東京社長が会長に就任するのと「セット」の人事だった。 経緯ヘッドハント2005年3月、ヘッドハンターからメールが来る。 ヘッドハンターと面談。 出資企業である投資会社「アドバンテッジパートナーズ」の意向だった。大株主である産業再生機構も同調していた。 いったん断るが、再度要請を受ける。 自宅近くまで押しかけてきた2005年3月下旬の週末、アドバンテッジパートナーズの笹沼泰助代表が、樋口氏の宅に電話をかける。 近くに来ているので、会いたいという。駅前の喫茶店に駆け付けると、「つらい思いをしているダイエー社員を、助けてもらえませんか」と必死に口説いた。 朝日新聞が先走り報道朝日新聞が2005年3月26日の夕刊一面に、「社長・樋口氏、会長・林氏で調整」と報じる。 これを見た日本HPの社内は大騒ぎになる。広報が否定コメントを出した。 朝日新聞の翌日朝刊で「ダイエー社長、樋口泰行氏が固辞」と報じ、軌道修正を行った。 このまま「誤報」となり、いったん立ち消えになるかに見えた。 産業再生機構の冨山和彦から手紙しかし、今度は産業再生機構の冨山和彦から手紙が来た。 政界や財界からも要請が来た。 「日本の国家的な一大プロジェクトだ」という認識に傾き、 2005年4月中旬、アドバンテッジパートナーズに受託の返答をした。 ダイエー社長としての取り組みダイエー社長に就任してから約1年3ヵ月の間に、合計10の社長直轄プロジェクトを立ち上げた。 第1弾「野菜の鮮度向上プロジェクト」に始まり、「店舗改造(改装)プロジェクト」「デリカ(総菜)プロジェクト」「コスト削減プロジェクト」等々。 “現場主義”にこだわりながら、負の遺産の整理を進めた。 「野菜新鮮宣言」2005年夏、樋口社長の直轄プロジェクトとして華々しく打ち出された「野菜新鮮宣言」。卸売市場にバイヤーを配置したり、店舗への配送時間を短縮したり、売り場の作業手順を変えたりして、鮮度を向上させるという内容だった。 惣菜の改善お客様や現場の社員から生の情報を集め、問題点を抽出。「ダイエーの総菜売り場はトンカツなどの男弁当が主体で、女性には量が多すぎる上に脂っこい」などの様々な指摘がなされ、それらの問題点を一つひとつ解決していく取り組みが始まった。2006年1月に「おいしいデリカ宣言」という形で結実し、全国の直営店で総菜の新メニューが導入されていった。 閉鎖店舗まわり全国263店舗のうち、54店舗を閉鎖した。 閉鎖店舗を1店ずつ回った。 「なぜ閉鎖対象となったかを、数字を用いた論理的な言葉と、思いを込めた熱い言葉で語る必要がある」という考えからだった。 スケジュールの関係でどうしても行けなかった数店舗については、林会長に行ってもらった。 集まった社員全員に、深々とお辞儀をした。 人員削減2005年11月に一般社員を対象に1268人の希望退職者を受け付けた。 2006年3月に本体社員の約10%に当たる800人を店舗催事会社に出向させた。 キャンペーン2005年12月、年末商戦に合わせたテレビCMの復活とキャッシュバック・キャンペーンを展開した。 「お買い物券」(キャッシュバック)キャッシュバック・キャンペーンは、「お買い物券」によって行われた。 ダイエーの店舗で5000円分の買い物をすると、500円相当のお買い物券がキャッシュバックされるというキャンペーンだ。 営業利益率がわずか1%にも満たないGMSという業態で、10%のキャッシュバックはきわめて「重い」キャンペーンである。 しかし、生まれ変わった売り場をお客様に体感してもらうには、中途半端なインパクトではダメだ。 少なくとも2回はご来店いただきたい。 そのような理由で、清水の舞台から飛び降りる思いで決断したキャンペーンだったという。 CMテレビCMは、ダイエーが生まれ変わったことを知らせるために、10年ぶりに全国規模のものを復活させた。 新しいスローガン新しいスローガンとして「ごはんがおいしくなるスーパー」を掲げた。 価格破壊の合言葉ともなった「良い品をどんどん安く」という創業以来のフレーズは、消費者ニーズの多様化に伴って時代に合わなくなっていた。 現在のお客様がGMSに期待している役割を問い直し、それに相応しいスローガンをつくることにした。 好転の兆しダイエーの既存店売上高は、2005年11月に21ヵ月ぶりで前年比プラスに転じていたが、この月は閉鎖店舗の閉店セールが売上を押し上げたという特殊要因があり、それ以外の店舗合計では実質マイナスだった。 ところが、巻き返しを図ったリベート廃止商品ラインナップに関して、当時のダイエーは「競合店に比べて売れ筋の商品が並んでいない」というクレームが多かった。 その一番の原因は、取引先との不透明なリベート(仕入割戻金)にあった。 仕入先から受け取るリベート目当てに品揃えをするため、売れ筋の商品が並ばず、売れない商品が相変わらず陳列されるという由々しき事態となる。 売れない商品を押し付けられる現場からは当然、反対の声が上がるが、本部の旧弊な体質がそれらの声をかき消していた。 樋口氏は、厳正な態度でこの問題に取り組み、リベート体質を一掃していった。 それによる商品力の向上効果は決して小さくなかったと思う。 結果2005年12月は、食品の客数が6%増えたことが大きく寄与し、2005年11月に続いて2ヵ月連続で前年実績を上回った。 2ヵ月連続のプラスは2003年11月以来のことで、最需要期の12月単月で前年比プラスとなったのは1994年以来11年ぶりの快挙だった。 その後も、瞬間風速で前年実績を数パーセント上回った週末が出た。生鮮食品など、ものによっては前年実績を10%以上上回る日もあった。以前のどん底からは脱した。 しかし、店舗閉鎖に伴うリストラや自然減によって、約2600人の社員がダイエーを去ったことで人手不足が深刻化した。そのしわ寄せは現場が被り、一人当たりの業務が激増、売り場が維持できなかったり、発注ミスが起こったりする例も出た。 結果として、樋口社長の現場重視の経営スタイルは、全社的な求心力を醸成するには至らなかった。 就任からわずか1年5カ月で社長退任2006年7月28日、産業再生機構がダイエーの全保有株式を丸紅に譲渡すると発表する。丸紅の持ち株比率は44%となり、圧倒的な筆頭株主になった。 丸紅の勝俣宣夫社長は発表会見で「新たなパートナーとの提携も検討」と表明した。 2006年8月、樋口社長が筆頭株主になった丸紅に辞任を申し入れる。
丸紅は、後任として西見徹常務(当時58歳)を選定。
西見氏は化成品の出身。丸紅米国会社の副社長兼COO(最高執行責任者)や丸紅カナダ会社社長を歴任した国際派。直近は金融や物流を担当。小売りとは無縁だった。
樋口社長は、就任からわずか約1年5カ月での退任となった。 マイクロソフト時代60社から誘いダイエー辞任後、「ぜひ我が社に来てほしい」との誘いを60社を超える企業から受けた。国内企業と外資系企業で半々だった。 そのうち、マイクロソフトは早い段階からオファーを出してきた。 傲慢なイメージしかし、マイクロソフトに対する印象はあまりよくなかったという。傲慢なイメージがあったからだ。 日本HP時代、マイクロソフトと取引があった。商談の席などで何気に見せる「ウィンドウズ以外の選択肢はないのだから」「こちらが供給してあげているのだから」などといった態度に、「何様だ」「いつまでもやれるわけがないだろう」と腹の中で毒突いていた。 観光のつもりでシアトルに面接シアトル見学を兼ねて、面接を受けてみることにした。娘を同行。観光のつもりだった。 ところがマイクロソフトの本社を訪問し、CEOのスティーブ・バルマーなど8人の幹部との面接で、マイクロソフトへの印象は一変した。 2007年3月、マイクロソフト入社。法人向け事業担当COO就任2007年3月、マイクロソフト日本法人の「法人向け事業担当COO」として入社した。 社長のダレンがコンシューマー向け事業を担当する。 樋口氏は法人を担当する。 1年間で約300社訪問1年間で約300社にのぼる顧客・パートナー企業への訪問を企画した。 「最高品質責任者」を設置入社から半年後の2007年9月に、「CQO(Chief Quality Officer=最高品質責任者)」を設置。 日本HP時代の同僚を起用した。「品質責任者だがデータの集計屋にならないでくれ。君の役割は火消し屋兼謝罪屋兼ゲリラだ」とお願いしたという。 2008年4月、社長就任2011年2月、日本マイクロソフトに社名変更 2015年、会長就任 パナソニック復帰2017年4月パナソニックに入社し専務役員就任。その後コネクティッドソリューションズ社社長就任。同年6月代表取締役専務執行役員就任。2022年4月より現職。 学生時代(中学、高校)卓球部 大学時代のアルバイト・弁当の配達 ・建築現場の作業員 ・テレビ局スタッフ ・旅行会社のツアー企画 ※旅行会社と組んで学生相手にスキーや沖縄観光などのツアーを企画。現地で客を受け入れた。 大学時代の趣味学生時代、アルバイトでためたお金を、パソコンの先駆けのワンボードマイコンにまるまるつぎ込むなどコンピューターに興味があった。 哲学・理念・考え方外資系出身というスマートなイメージとは裏腹に「情熱家。現場に下りて、社員と一緒に汗が流せる人」というのが周囲の人物評だ。 家族父親大阪市立大で化学を教える研究者。夜遅くまで実験に励み、暮らしはつつましかった。 趣味(社長就任時)ドラム演奏。 著書「『愚直』論」 動画 |